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記憶から消えていても、行動や思考は小さい頃の経験からできている

保育について
こんにちは、ちゃぽこです。
今回東京に転居することになって、保育現場から少し離れる時間ができてしまいました。
今のうちにできる事をと思っていたら、自己分析にたどり着き、2ヶ月近く毎日ひっそりと自分に向き合ってみました。
 上手く自己分析ができなかったのか、その場ではなんとなく答えは出るのだけれど、時間が経つとその時感じたことや出した答えに違和感を覚えてしまう事もあって、自己分析に自信が持てないというどうしようもない感。
そこで更にもう少しだけ自分を深く振り返ってみようと思ったのです。

学生時代

小さい頃は結構活発な子でしたが、中学の頃には一度は通ると思われる人生の暗黒期を迎え、先日実家で偶然発見した高校の受験票用証明写真は、写っている私本人も

この子大丈夫?

と心配になるくらい、表情が暗くなってました。

で、高校なんとか持ち直したものの、少々の修羅場を体験しつつ、短大で爆発
完全に「若さ」を謳歌しまくってから就職・・・。
という経緯の持ち主です。

気持ちの方は、気づけば一生懸命自尊心を奮い立たせながらも、何をしていいのかわからない。

なんで私はあの子みたいになれないんだろう?

どうすればあんな風になれるんだろう?

こんな事を考える子でした。

短大の頃は人と比べることはあまりしなくなりましたが、それでも自信のなさは相変わらずで、人からどう思われるかがとても気になっていました。
私自身、最初はこの人生の暗黒期がトラウマになっているのか?と思っていました。
記憶から消したい・・・消した?事も沢山あると思います。
でも先日偶然実家で見つけてしまった小学1年生の頃の作文で全てが判明しました。

私の作文

1年生の最後、「2年生になったら頑張りたい事」というような題で作文を書きました。
そこに書かれていたこと。
「わたしは2年生になったら、もっといい子になって、まちがいもなくしたいです。」
読んだ瞬間、涙が止まらなくなりました。
「私のつまずき」はここでした
自分の親の事は嫌いではないし、大した反抗期もなく、今も仲は悪くないです。
でも思い出してしまいました。

 何かする前から

人前で恥ずかしいことするな

と言われたり、

ちゃんと親のいう事を聞きなさい(従いなさい)

と言われまくった幼少期。

言われた事を聞かず、何か間違ったり、失敗したりすると

ほら、やっぱり間違った

と言われました。

やる前から

失敗したらどうするの?

と否定から入られる事。

私が「杭」なら、出る前から予防という言葉の「金槌」で叩かれまくっているような、そんな心境です。
私、親に認めてもらいたかったんだなぁ。
抑圧されて、いい子にしてたらこっち向いてくれるって思ったのかなぁ。
当時の私の記憶は全くないけれど、文面見て言葉に表せない感情がゴーーーーーーっと押し寄せてきたわけです。
気づけば反対される事が怖くて「相談」という名の「自己決定の放棄」をするようになっていました。
やる前から「もし〜ならやれるのに」と、できない事を前提にして考えていました。
今考えると、ほんっと!!ほんっっとーーーーーに、人生もったいない事してた!!
私の人生は、私のものなのに!!

私がしたいこと

子どもの自己肯定感を育むって、いいますよね。
保育士としても、母親としても、関わる子ども達には自己肯定感を高めていって欲しいと思います。
自分に自信を持てるように、自分で選択した事に反省はしても後悔はしすぎないように・・。
親だから、担任だから、心配しすぎて先に口を出してしまう事はよくあると思います。
でも常に「この声かけは誰の為の声かけなのか」この子の心にはどう響くだろう?」そういう事を考えられるようになっていきたいと思うのです。
今回振り返ってみて、私は全く覚えていなかったけれど、培われてきた「親に認めて欲しかった思い」が奥底でずっと足を引っ張っていた事に気づきました。
「マイナスに働いた感情はプラスの感情よりもずっと残り続ける」
これを体感したわけです。
記憶から消えていたとしても、自分の考え方、行動に必ず影響を残している。
だから、関わる子ども達の将来に自分が足を引っ張るきっかけは作りたくない。
沢山笑って、沢山認めて、沢山抱きしめて、大好きだよって伝え続けていきたい。
子どもの思いを「認める」「受け止める」っていう言葉を保育士は結構使うけれど、その「認めて受け止めた先」必ず最後にはその子の笑顔に繋がるような関わり方を模索していきたいと思うのです。

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